5⃣ 走馬灯 

長く生き続けておられる末期癌の先輩がたくさんいる。
その事実を励みに
歩きつづけようと思う。
脊椎の骨転移の激しい痛み
秋口から傷み始めた骨転移
が、初冬を迎える頃には、
強い痛み止めなしには耐え
きれないほどとなった。
痛みどめを飲むと、内蔵が
重く全身倦怠感を伴うので
できるだけ使いたくなかっ
のだけれど、それなしでは
夜も眠れなくなっていた。

夜も昼も・・沢山夢をみた。
祖母の夢が多かった。
夢の中の祖母は私の傍で、
優しい瞳で見てくれている
のに、私はいつも泣きだし
てしまって目が覚める。

夢の中で私はいつも17歳
の高校生で、ちょうど障害
を持つ私の姉が養護学校を
卒業し、でも次の行き場
所が決まららずにいた頃。
障害者の成人施設は絶対数
が足りず、緊急性のある人
から順に入れるのだと両親
から聞いて、私は大学を家
から通える学費の安い所に
絞った。

県外の大学に、一緒に進学
しようとずっと一緒に頑張
ってきた大切な人がいた。
将来の淡い夢も、乙女の夢
も現実の前には儚かった。
仕事の忙しい両親には話せ
なくて、祖母にだけ打ち明
けていた夢だったこともあ
り、私は自分の進路変更へ
の苦い思いを祖母に素直に
打ち明けた。
「大丈夫、神様はいるから、
みんな上手くいくよ。」
といってくれた祖母が、家
の裏倉庫で自死をしたのは
その年のクリスマスイブの
夜だった。
プレゼントを手に、祖母の
姿を探した私は発見者とな
った。 しっかりとマスクをして、 何重にも下履きをかさね、 足をみずから紐で結んだ 祖母の姿が脳裏に蘇る。 と、同時に、夢の中の祖 母は変わらず優しい目で 私を癒してくれた。 「もうすぐ、そっちへ私 もいくから。いったら、 いっぱい謝るから。。」
「ごめんねばあちゃん。あんなふう に行かせてしまって。」 夢と現実が混ざり合って 朦朧とした頭で、祖母に 話かけた。何度も見る同 じ夢の中で祖母を追った。

4⃣ 癌骨転移 激痛で救急車 眠れぬ夜

骨転移の激痛で動きにくい私に読み
聞かせをしてくれる娘。悟ったよう
な飼い猫。
苦しむ母の姿だけは見せないですみ
たいと笑顔を貼り付けた頃。
<救急車のお世話になる痛み>

癌が脊椎近くに転移して日に日に痛みと
不安が増した。
まだまだ幼い娘がやっと本が読めるように
なってきて、横になることの多い私のそば
で、本を読んでくれるのが日課となった。

「もっといっぱい読んであげる。ママ
 の好きなお話全部読んであげる。」

痛いのと、申し訳ない気持ちとで涙が出そ
うになるのを力いっぱいの貼り付けた笑顔
でごまかした。
赤ちゃんから育てた飼い猫が、不思議と背
中の痛む場所に寄り添うように、ゴロゴロ
と鳴音を立ててくれた。気持ちよかった。

猫の鳴音は痛みに効くと聞いたことがあっ
った。愛猫の鳴音は本当に痛みに効く気が
した。



ある夜、あまりの痛みに救急車(無音)
を呼んだ。電気を消し、這って自室から
玄関先まで、音を立てないように移動した。
目に涙を一杯ためた娘が、私の頭をポンポ
ンとなでてくれた。
「ママ食べすぎたの?痛いのすぐ直るから
 大丈夫。」

嗚咽を奥歯でかみしめた。

「生きて、この子のそばにおるわい!」
娘の手の温もりを感じて、お腹の底から、
力が沸き上がった。担架の上で、精一杯
の満面の笑顔を作り、娘の手を握った。








 


3⃣ 足の感覚がなくなった?! 薬剤の副反応?? 

ゴーヤは癌に聞くといわれていて、夏の主食としています。ご近所にゴーヤを夏の間ずっと家まで届けてくださる方がいて、、生きる希望をいただいています。
フルベストラント 
を打った5月の午後、病院の治療用ベッドがら両足を床に
下ろした時、
「右足の裏が床を感じない!!」
目で確認しながら足を何度おろしなおしても、確かについ
ているはずの両足の裏が、床の感覚を伝えてこないことに
私はぞっとした。またか・・・
「歩けますか?」
「大丈夫です」
一時的な痺れだろうと自分を納得させながら、病院から
自宅に戻る間も、ふわふわと右足だけまるで雲の上を歩
いているかのように頼りない感覚だった。
「この薬が切れたら使える薬は。。。」主治医の呟いた
言葉が頭の中をぐるぐると回り
「我慢できる限り、この症状は我慢しよう・・・まだ死にたくない!」
思わず独り言が口から出てしまった。


娘のアトピーの食事療法のためにお願いした遅延性食物
アレルギー検査キットがとどいて娘の血液と髪をラボに
送り、アレルゲンの特定をしてもらうしくみだった。
小さな指の5,6本に針を突き刺し十分な量の血液を絞
り出して、試験管半本くらいをラボに送る。
血の適量を確保するために娘の両手の指を血まみれにし
て、それでも泣かない娘が不憫だった。
「がんばったら、病気よくなるんでしょ。ぜんぜん平気
 だよ。パパ、ママありがとう。」
歯を食いしばる幼い娘といっしょに、夫と二人泣きな
がらその指の血を絞っていた。
結果は二週間で来て、驚くことに、126品目にも及ぶ
食品の摂取制限が推奨されていた。

「ごめんね。今まで気がつかなくって」

それから、一週間かけて家庭の食事のメニューを夫婦で
組みなおし、夫はアーユルベーダの資料から、娘の生活
習慣全部を作り直した。
一週間の単位で、娘の肌は明るさを少しづつまして行き、
それでもアレルゲンを少しでも体に入れると、痒みを起
こす。食事や生活スタイルを調整すると痒みも収まる。
繰り返しの中で、私達は少しづつ娘に合うスタイルを学
んだ。汗ばんだあとの皮膚の清浄にはティーツリーオイ
ルや、ドクダミの旬の時期には絞り

たての汁をアルカリイオン水で半分に薄めたもので拭く。
乾燥したセイタカアワダチソウの汁をお風呂の中にいれ、
親子で遊びました。
三か月後、まだ痕は残るものの娘の肌は薄ピンクのきれ
いで、柔らかな肌となって、夜中のぼりぼりと皮膚を掻
く音も、聞かなくなっていました。奇跡が起きた・・・?
神様ありがとうございます。

時は2020年8月。

しかしその頃、私の足はもう画びょうを踏んで血が流れても、
痛みを感じないまでに麻痺が進んでいた。右足は完全に、
左足もそれに近い状況となり、走ることはもうこわくて
できない・・・。
「限界です。投薬の中止をお願いしたいのですが・・・」
私がそう依頼をしたとき、主治医は小さくうなづいてく
ださって、
「どこか試みたい治療を見つけられたら、資料を準備し
ます。紹介状も書きますから」
と言ってくださった。
そこからホルモン治療を完全にあきらめる12月までに、
右手でペンを握ることが不自由となり、B12製剤を服
用を始めると同時に、ホルモン剤投与を中止した。
「どこにでも紹介状って・・・治る方法は自分で探せと
 いうことですか?先生」
口には出さないが、寂しいような、心細い感覚を覚える日々、
娘を抱いて眠ることで、心をどうにか立て直す。
 
薬の投薬を中止した私の癌マーカー値はじりじりと
だだ上がっていきました。
それとともに、脊椎近くにある骨の痛みで眠れない夜
が始まったのでした。






 


2⃣ 効かなくなったホルモン剤そして娘のアトピー性皮膚炎の悪化 

フェマーラを飲み始めて半年、幸い副作用は少し気が滅入る程度の
もので、目立った苦しさもなくもしかしたらこのまま寛解できるのではないか?などと、
夢を見始めていた冬の終わり・・・病院で受ける血液検査のマーカー値が癌の悪化を示す
ように少しづつ上がり始めました。
「薬効が切れ始めましたたね。。次の薬をためしますか?」
主治医が全く予想内のことだとでもいうように、次の薬を紹介しださった。

こうして、次の薬に次々と移っていって、最後は効く薬がなくなって死ぬのが癌という病・・・
どこかで読んだ本の解説が頭によぎりました。
「副作用は、前の薬よりも強いかもしれませんが、最低限の処置として必要です。」
それはフルベストラント 
というステロイドのホルモン剤筋肉注射でした。

「その薬の薬効は、どのくらい持つのでしょうか?」
「個人差ですからなんとも言えませんが、少なくとも半年以上は。あなたの場合副作用
 の問題もあるかもしれません。」
その後は?と、聞きたい気持ちを飲みこんで、最初の注射を受け、家路を急ぎました。

「ママ、体がね、めちゃくちゃ痒い」
家のつくと保育園から帰った娘は、肘と膝の裏を狂ったようにかきむしっておりました。
連絡ノートにはステロイド剤をぬったけれど、一日収まることのない娘の皮膚の痒みの
ことが保育士さんの丁寧な言葉で書かれてありました。
2歳半でアトピー性皮膚炎と診断された娘は、顔以外の全身が赤い湿疹に覆われ、処方
されたステロイド軟こうを塗るもの、症状はいつも一進一退を繰り返しているのでした。
私達夫婦は、車で1.5時間以内で通える皮膚科にはすべて、
もう相談しつくしていました。

一晩中、体を搔きむしる娘を抱きしめなだめる長い夜が明ける頃、朦朧とした頭の中で
「日本がだめなら世界があるさ・・・」
と声が聞こえたような気がしました。
次の朝に夫が決心したように、私に告げてくれたのは。
「結婚する時に言えなかった。僕は若い頃アトピー性皮膚炎だった。3年間仕事も中断した
こともあるほどの重度の症状に苦しんた。でも何年も苦しんだ後、アーユルベーダの知識も
持った西洋医学の医師に4か月で完治に導いてもらった。」と。

「日本から一番近いアーユルベーダの大きな病院は?」
「マレーシアにある。」
「英語?なら私が娘を連れてそこにきます。そして調べられるだけの知識を得てきます。」
「私が今乳がんに使っているホルモン剤は半年も持たないかもしれない。
 コロナで便数が減っている中、病気休暇で時間もとれる。この先もう海外に出られる機会
はもう私にはないかもしれない。今ならだま体力が残ってる。
母親としてできることは全部やろう・・・
主治医の許可を得て、自分の中では娘と最初と最後となるかもしれない海外旅行の準備を始
めたのでした。

 2020年 2月末、私は娘を抱いてマレーシアにおりたちました。 

 丸ごとマンゴーのおやつにはしゃぐ娘と常温の薄味の食事、毎日の錠剤と呑むミネラル
オイル2,3日に一度の医師の診察。毎日のブール浴とその後のオイルマッサージ。
ヨガとストレッチで2週間を過ごした後、医師の診断は娘にはプロバイオティクスなどの
腸環境の改善と皮膚の清浄保湿。私には食事の管理と運動、呼吸、アシュワガンダなど
サプリメントをベースにした体質改善の必要性でした。。。
 

 医師が推薦した薬剤の多くは日本では入手が困難なもので、闘病用の貯金を下ろして
ここに来た意味はあったのだろうか・・・不安の中でも、食物が体を作るという思想は私の
心に深く染み込み、いつしか小さな希望に変わっておりました。旅の終わり頃、
「日本には優秀な遅延性食物アレルギー検査がありますよ。」
と教えてくれた医師の言葉は、コロナで国境が封鎖される前に、治療を途中で切り上げ
ざるを得なかった私と娘にも次の確かな希望をつないでくれたのでした。
 
 遅延性アレルギー検査


 ただ、この後、娘は改善に向かうものの、私の乳癌は悪化癌マーカーは急激に高くなっ
 ていきました。



 


1⃣ 薬物アレルギー患者やのに 乳癌ステージ4となった 

酷い倦怠感と右腕の痺れに、50肩かな?
ぐらいの認識で、病院に行った私は、MRIを受け、続けて「骨シンチ」という骨の
レントゲンを受けました。骨粗鬆でもついでに見てくれるのかしら?ぐらいに思って
待合の椅子に座っていた私の横に、柔和な笑顔をたたえた看護師さんが、座ってくれて、
「今日はお一人でこられましたか?お家の方は同席は可能でしょうか?」
と丁寧な物腰で聞いてくれました。
瞬間、嫌な予感・・・
「長く生きていますから、一人でも大丈夫ですよ。」

診察室で医師はたんたんと検査結果を告げてくれました。
「これ、この白いの。。。胸筋にはりついてる乳癌。あとここもね、リンパにね。」
「こっちの写真で骨が黒く映っているところが、骨転移ね。」
「骨転移があるから、手術はできないと思ってください。なので薬物治療が中心になります。」「じゃ、看護師さんに準備してもらいますね。」

流れ作業のように言葉を続ける主治医に、私はおそるおそる告げました。

「先生、私、薬物アレルギーがひどくて、風邪薬で目の焦点合わなくなったりしますし、
 小学校で結核を患った時は、ストレプトマイシンのショックで心停止してしまって・・・
「クロマイという薬で首の骨もすこしもろくなっているようです。」
「少し前に造影剤(ヨード剤)で全身赤くはれて、呼吸困難をおこしたことがあって・・」


診察室の空気が重く淀んでいく気がしました。癌の宣告で意識が朦朧とした中でもとりあえず
これだけは先に伝えておかないとと思った薬物アレルギーに関する申告は、まるで自分の生き残る
可能性を全て打ち砕き、ゼロにしたかのように思えはじめて・・・

「まずは、ホルモン剤でどれだけいけるか。。この薬よく効きますから。」
貼り付けたような優しい笑顔を、主治医は私に向けてくれました。

「よろしくお願いします」
私は気絶してしまわないよう。大きく目を開いたまま頭をさげました。
床も壁も人の顔もがみな、薄い灰色の境界がぼやけた景色の中、病院の出口からどうにか出て、
フェマーラという薬を抱いたまま、病院の隣にある公園のブランコで絞りだせるだけの涙を
絞って、少し軽くなった体で娘と夫の待つ家へ、笑顔を固く張り付けて向かいました。

「どれだけいけるか・・」


フェマーラとい最初の薬の効果が切れた私の癌マーカー値が跳ね上がり始めたのは。
それから半年後・・・